作 Sassahさん

Solace


泣きたいときは泣いていい
あふれる涙を 心の悲鳴を
おしこめようとしなくていい

私も知っている
愛するものを喪った悲しみを
救えなかった苦しみを

その私が 
悲しむ姿を見たくないから
だから泣かないでくれと
どうして言えるだろう

けれど

グレゴワール そしてトマ
嘆くことはないのだ
私は失われてなどいないのだから
私を覚えているかぎり 思い出すかぎり
いつでも そこに私はいるのだから

風の中から 光の中から
いつでも ささやきかけることができるのだから

私はいる お前が私を思い出すときに




Sassahさんの絵「涙」を見ているうちに、自然と浮かんだのがマニの言葉です。
フロンサックとトマの「涙」、マニの「Solace(慰め)」。

喪失の悲しみ。
大切なものがそこにある日々の喜び、共にあるであろう日々の積み重ね。あることを疑いもしなかったものが、自分の手をすりぬけて消えてしまった。あるのは埋めようのない空洞だけ。
どんなに願っても取り戻せない。あの日々には戻れない。

そして、悲しみがもし悲しみとしてだけあるなら、残された者はこれほど苦しまない。

なぜ救えなかったのか、なぜ自分はこうなることを止められなかったのか、なぜあの人は行ってしまったのか、なぜ、なぜ・・・・・。
こうなったのは自分のせいだ。何かできたはずなのに、何もしなかった自分のせいだ。手をこまねいていた自分が許せない。
あの人が死ぬことはなかったんだ。死ぬなら自分が死ぬべきだった。

答えの出ない数々の「なぜ」、自分を許せないという自罰感情、生き残った者の罪悪感。
これらが残された者を深く、長く、苦しめるのです。


その苦しみがどんなものか、マニにはわかっています。
かつて同胞を喪った痛みを。
大切に思う人がその痛みを感じていることも、それを与えているのが自分であることも。
彼らの涙を見ていることは二重に辛い。
でも、マニは「泣かないでくれ」とは言わない。見ているのが辛いから、自分が楽になりたいから、そんな理由で心に蓋をしろなどとは言わない。
自分も痛みを分かちながら寄り添う。マニならきっとそうする。
そう思うのです。


悲しみと苦しみの只中にいる人に必要なのは、深い共感、それ以外には何もない。
そのままを受け入れられ、共感されること。
それを得て初めて、人は自分を赦せるのだと、私は思います。


後半部分は新井満氏の言葉が下敷きになっています。
「死者は死ならず。生者ある限り生なり。」
人は亡くなっても、その人を覚えている人がいる限り生き続ける。
その時、私はブランドンのことを思いました。
あぁそうだ、彼は思い出される度に、思う人の心の中で蘇る。
確かなこととして感じられました。

そして、その日Sassahさんのサイトを訪れると、この言葉がありました。
「私はいる、お前が思い出すときに。」
何かの啓示かとすら思いました。
この言葉を、詩の最後の一行にお借りしました。
胸に響く言葉と絵を、Sassahさん、ありがとうございました。



「風の中に、光の中に、私はいるから。
あなたが私を思うとき、いつでも私はそこにいるから。」